石田三成豊臣秀頼徳川家康
            
1614年10月1日(幸村47歳)、家康は大坂城討伐令を布告。
この時、豊臣家の兵は3万しかおらず、秀頼は関ヶ原以降の徳川の政策に不満を持っている諸国の大名や浪人に対し、大坂城に結集するよう呼びかけた。
大名は動かなかったが浪人は大勢集まった。家康が天下を統一して戦が無くなった今、諸大名からの召抱えを期待する浪人で豊臣勢は10万を超える大軍となった。
高野山に配流されていた幸村のもとにも使者が尋ねて来た。
「徳川を滅ぼすため幸村殿の力を貸して頂きたい」
豊臣家から当座の支度金として黄金200枚、銀30貫が贈られた。
使者が帰った後、幸村は感極まる。
「このまま高野の山中に埋もれるかと思ったが、ついに武士として最高の死に場所を得たぞ!」。
幸村は14年間の謹慎生活で周辺の農民とも親しくなっており、彼らは幸村の心境を察し、脱走に協力したという。幸村は高野山を脱出し妻子(長男大助など5人の子)と共に大坂城に入城した。
14日、家康の元に「真田が入城せり」と報告が入る。
「なんだとッ!」家康は驚愕して立ち上がり、思わず掴んだ戸が手の震えで音を立てたという。
「その篭城した真田は親か子か」と問う彼に、使者が「子の幸村であります」と答える。
まだ幸村の本領を知らぬ家康は胸を撫で下ろしたとか。
真田信之VS真田幸村

一方の幸村は、「さて、どう戦うか」と頭を悩ませた。
徳川家康は大軍を擁している。そのうえ徳川四天王と称される名のある武将たちも多い。
何よりも兄・信之が徳川方にいるのだ。
豊臣の戦を知らぬお坊ちゃんと、豊臣恩顧の武将だけが頼りの淀君の採決で篭城が決定してしまったので、とにかく幸村は攻城戦をシミュレーションしてみた。
大阪城は東に湿地帯、北に天満川、西に難波港という地形を考えると、大軍が陣を張るのは南と考え、最も防衛力をそこへ集中する必要があるとし、南城壁の外側に砦・真田丸を築いた。

真田丸地図

真田丸は背後を大坂城の堀で防御し、
三方を空掘り(水の無い堀)と三重の柵で囲み、
矢倉、銃座、城内への抜け穴を持つ強固な砦になった。

●大坂冬の陣夏の陣までをざっくりとご説明しますと。
1614年11月15日、『大坂冬の陣』開戦。
幸村は大坂城の外に飛び出た「真田丸」が総攻撃の的になる事を覚悟して立て篭もり、兵たちの団結力を高める為に、真田隊の鎧を赤で統一した(真田の赤備え)。
家康は力攻めでは落城できぬと判断し、城内にスパイを忍ばせて内部の切り崩しを謀るなど、攻撃のタイミングをうかがった。
開戦から数日間は東軍が攻める姿勢を見せず、大きな戦いは起きていない。
この間に数度起きた小競り合いは、いずれも真田丸からの銃撃隊の守備によって撃退。
一方では、城内には徳川の内応者が裏切る手はずになっていたが、真田鉄砲隊のミスによる銃の暴発が発生した爆音を、寝返りの合図と勘違いした東軍がフライングで出陣するというハプニングが起きたのである。
とりあえず大阪冬の陣が始まった
ここぞとばかりに手柄を焦り狭い城門の前にひしめき合う敵兵を見て、幸村は呆れ果てた。
東軍のやつらは開城を待って門前に並んでいる。頭上の銃撃隊に注意を払うものはなし。
「…では遠慮なく」と真田鉄砲隊の一斉射撃!みるみる死傷者が増え、蓋を開けてみれば、東軍は24時間で1万人以上の死傷者を出し、この日から迂闊に真田丸に接近できなくなった。
師走の厳寒の中、吹きさらしの塹壕や仮小屋で野営を続ける東軍の士気は著しく低下していく。米を補給するにも、豊臣側が既に買い占めていたので現地調達は出来なかった。
家康は焦燥し、策を弄した。
家臣の真田信尹(幸村の叔父)を使者に真田丸を訪問させ、「信濃10万石で寝返らないか」と幸村を勧誘した。信濃一国をやるというのだが、幸村は「お断り申す」。と、あっさり断った
結局、埒(らち)があかないので、家康は豊臣方に和議を提案した
当初、総大将・秀頼は和睦を拒否した。
しかし、家康が一晩中、約300門の大筒(大砲)で断続的に攻撃する為、轟音で母・淀君の神経が参ってしまった。しかも一発が居室を直撃、侍女の8名が即死した。悲惨な現場を見て震え上がった淀君は秀頼を説き伏せ、城の『外堀』を埋めることを呑んで12月20日に和平が成立した。
豊臣側は「だらだらと埋め立てて時間を稼ごう。家康はもう高齢だ。死ねば諸大名も寝返るだろう」と考えた(事実、家康は1年半後に他界している)。和平が結ばれ、真田丸は日本中の大名20万を相手に大坂城を守り通した。
こうして、しばしの休戦となったのである。

ところが、ただちに外堀の埋め立てに取り掛かった家康は、豊臣側が工事を担当したエリアまで「お手伝い」と称してどんどん埋めていった。
一気に内堀まで埋めようとする東軍に豊臣方が抗議しても、シラを切ったり、とぼけたりで、約1ヶ月後には外堀、内堀、全ての堀が埋まり、真田丸も壊されてしまった
大坂城は本丸だけの裸城になってしまったのだ。
さらに家康は、秀頼に大坂から別の土地への国替えと、すべての浪人の追放を要求してきた。
秀頼はキレた
「和談要求は我がドクロの前で言え!」。
大坂夏の陣が、こうして勃発した!

細川ガラシャ

          
                   幸村の人生