真田幸村肖像画2
  
 大阪夏の陣


1615年4月28日、夏の陣開戦。
兵力は豊臣軍約7万、徳川軍約15万5千。
豊臣方の武将は城を捨て、野戦にうって出た。
2倍の敵に突撃していったのだ。

伊達政宗
「道明寺の合戦」
豊臣方は奈良と大坂を結ぶ道明寺付近に布陣して、畿内入りする東軍を各個撃破する作戦をとった。
しかし、スパイがいた為に進軍ルートを変更され、しかも濃霧の中で豊臣勢は終結が遅れ、先に集合地点に着いて孤立した後藤又兵衛、薄田兼相(すすきだかねすけ)ら有名武将が、伊達政宗の騎馬鉄砲隊1万5千の前に次々と壮絶な戦死を遂げていく。

幸村が到着した頃には戦線が崩壊しており、撤退する大坂方の殿軍(最後尾)を務めた。

5月7日、正午。幸村の正面の越前松平軍1万3千の後方に、家康は本陣を張った。
幸村は目を細める。
「まっこと、ワシは名誉な死に場所を得た。真田隊、行くぞ!」。
真田隊3千は、家康だけにターゲットを定め一丸となって突撃を敢行した。
幸村は越前勢の戦力を分散させる為に、数名の影武者と共に進撃し、各影武者が果敢に東軍を引き付けた(影武者は最初から死ぬ気)。真田隊は鬼気迫る戦いぶりで越前勢の大軍の中を突破し、防御が手薄となった場所を突いて、とうとう家康の本陣にたどり着いた!

本陣前では家康の旗本隊(先鋭部隊)が人間の壁を作り、真田隊の猛攻を受け止め凄絶な乱戦となった。真田隊は討死が相次ぐが、戦列を整えて3度本陣への突撃を繰り返した。
そしてついに家康の『馬印』(うまじるし、本陣の旗)が引き倒された。家康にとって馬印が倒されたのは、生涯で「三方ヶ原の戦」の武田戦と、この真田特攻の2度だけだ
“真田にこの首は取らせぬ!”
踏み倒された馬印を見て家康は腹を切ろうとしたが、これは側近たちに止められた。
真田幸村銅像 三光神社

決死の覚悟で臨んだ真田隊だが、多勢に無勢、次第に追い詰められ四天王寺に近い安居神社に撤退した。
負傷した幸村は神社の側の畦(あぜ)で手当てをしていたが、そこを越前松平隊の西尾仁左衛門に槍で刺され討ち取られた。
享年48歳。翌日、秀頼・淀殿は自害し、大助も秀頼に殉死。
こうして大坂夏の陣は終わった。
幸村を討って褒美を授かった西尾仁左衛門は、故郷に「真田地蔵尊」を建て菩提を弔ったされています。

現在、大阪・京都・福島など全国各地に【真田信繁】を弔う墓所などが数多くあります。
そのうちのひとつに、大阪城近くに建立された三光神社が有名です。
ところが一説には、「幸村は影武者・穴山小助の死で徳川方をあざむき、秀頼を守って大坂を脱出し、薩摩で天寿を全うした」という異説もあります。
実際に大坂の陣の後、次のわらべ歌が流行したといいます。
「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きものいたり鹿児島へ」。
もちろんこれは仮説のようなもので、真実は誰にもわかりませんが。
歴女(笑)としては、鹿児島に関わるかもしれない、真田幸村の真実を知りたいと思ってしまうものです・・・。