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![]() 秀吉は真田家の後ろ盾となることを約束し、人質(幸村)は上杉から秀吉の下へ移った。 この後、家康は秀吉に屈服し、秀吉の天下統一を阻む敵は関東北条氏を残すのみとなった。 1590年(幸村23歳)、20万の兵を導入して小田原征伐が完了。 秀吉は天下人となり、真田も徳川も同じ主君に従う家臣として和解する。 けれども、太平の世は長くはもたなかった。 1598年(31歳)、秀吉病没。時代は再び動き出す。
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敵味方に分かれる事になった両者は、互いの武運を祈ると共に、戦国の世の非情さを痛感した。 昌幸・幸村は上田城に帰った。家康は信之が残ったことに感激し、関ヶ原の後、昌幸の土地は信之に与えることを約束した。 いよいよ関ヶ原に向かう家康は、関東不在中に上杉・真田軍に江戸を奪われぬよう、軍を二手に分けて進軍した。自ら率いる本隊8万は東海道を、嫡子・秀忠が大将の分隊4万は真田の牽制も兼ねて中山道を行かせた。 |
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西軍としての昌幸の戦略は、秀忠軍を足留めして関ヶ原合戦に遅刻させること。 東軍の両隊12万に対し西軍は9万と数の上では負けている。 しかし本隊8万のみなら西軍の方が1万多い。 小大名の真田が関ヶ原で秀忠の4万を倒すことは不可能だが、合戦に遅参させれば倒したも同然。 このあたり昌幸が天才戦略家と呼ばれる由縁である。 |
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