昌幸は家康との次なる戦いに備え、秀吉の力を頼ることにする。
秀吉は真田家の後ろ盾となることを約束し、人質(幸村)は上杉から秀吉の下へ移った。
この後、家康は秀吉に屈服し、秀吉の天下統一を阻む敵は関東北条氏を残すのみとなった。
1590年(幸村23歳)、20万の兵を導入して小田原征伐が完了。
秀吉は天下人となり、真田も徳川も同じ主君に従う家臣として和解する。
けれども、太平の世は長くはもたなかった。
1598年(31歳)、秀吉病没。時代は再び動き出す。

豊臣秀吉   1600年(33歳)、家康は天下取りに向けて豊臣五大老の征伐を開始する。
まずは前田利長(利家の子)を服従させた後、会津120万石の上杉景勝に狙いを定めた。
同年6月、家康は東進開始。
一方、石田三成が7月に挙兵。21日、上杉討伐に従軍していた真田父子(昌幸、信之、幸村)は、下野国犬伏(栃木・佐野市)で家康を断罪する密書を受け取った。
そこには、
「秀吉の遺命に家康は背き、秀頼を見捨てて勢力を拡大している。秀吉の御恩を大切にするなら西軍に入るべし」
と記してあった。
「これはどうしたものかのう…」
その夜、真田父子は東西のいずれに身を置くか話し合った。

真田家との関係図
というのも、戦国時代は政略結婚によって、互いの領土を守り、敵国からも守りあっていたので、このようなことが頻繁に起こっていたのである。
前田慶次
昌幸は真田領譲渡の一件で家康を嫌っていたが、信之は和平後に家康から才を認められ側近を務めるなど家康と親しく、幸村は豊臣方での人質時代に世話になった知人が大勢いる。
その結果、昌幸と幸村が西軍に、信之が東軍につくことになった。
敵味方に分かれる事になった両者は、互いの武運を祈ると共に、戦国の世の非情さを痛感した。
昌幸・幸村は上田城に帰った。家康は信之が残ったことに感激し、関ヶ原の後、昌幸の土地は信之に与えることを約束した。
いよいよ関ヶ原に向かう家康は、関東不在中に上杉・真田軍に江戸を奪われぬよう、軍を二手に分けて進軍した。自ら率いる本隊8万は東海道を、嫡子・秀忠が大将の分隊4万は真田の牽制も兼ねて中山道を行かせた。
西軍としての昌幸の戦略は、秀忠軍を足留めして関ヶ原合戦に遅刻させること。
東軍の両隊12万に対し西軍は9万と数の上では負けている。
しかし本隊8万のみなら西軍の方が1万多い。
小大名の真田が関ヶ原で秀忠の4万を倒すことは不可能だが、合戦に遅参させれば倒したも同然。
このあたり昌幸が天才戦略家と呼ばれる由縁である。
          
                   幸村の人生