ロマン派の代表的なピアノ作曲家。
ポーランドのワルシャワ近郊ジェラゾヴァ・ヴォラに生まれました。
4歳の時からピアノのレッスンを受け、またたく間に才能を発揮し始め、8歳時には公開演奏を行い、第2のモーツァルトの登場とまで言われるまでになりました。
15歳には最初の作品を出版し、その後、祖国を後にしウィーン、パリへと移住して活躍の場を求めていきます。パリの社交界で有名になり、演奏会でピアニスト、作曲家としての名声を確立していきます。
女流作家のジョルジュ・サンドと出会い、サンドとの生活の中で、持病の結核に苦しめられながら多くの名曲を作曲していきました。
晩年は病状が悪化して作曲活動もままならず生涯を終えます。39歳で亡くなるまで愛する祖国ポーランドに帰れることはありませんでした。。
作品のほとんどがピアノ作品であり、ノクターン、ポロネーズ、エチュード、ワルツ、ソナタなどに傑作を残しました。独特な書法による華麗で優雅な旋律、並びに哀愁に満ちたピアノ音楽を創造し「ピアノの詩人」と称される。
~略歴~
1810年(0歳) | 3月1日、ワルシャワに誕生。 |
1814年(4歳) | 姉や母からピアノの手ほどきをうける。 |
1817年(7歳) | 宮廷ピアニスト、シヴニーにピアノを学ぶ。 |
1818年(8歳) | ラシヴィウ宮殿で最初の演奏会を行う。 |
1822年(12歳) | ワルシャワ音楽院長のエルスネルから和声と対位法を学ぶ。 |
1823年(13歳) | ワルシャワ高等中学校4学年に編入。 |
1825年(15歳) | 「ロンド ハ長調」発表、出版。 |
1826年(16歳) | ワルシャワ音楽院に入学。 |
1827年(17歳) | 妹エミリアが肺炎のため死去。 |
1829年(19歳) | 初のウィーン訪問。2度の演奏会を開く。 |
1830年(20歳) | 「ピアノ協奏曲第1番」初演。ワルシャワからウィーンへ。 |
1831年(21歳) | ウィーンを去りパリへ。 「エチュード第12番『革命』」、「ワルツ第1番『華麗なる大円舞曲』」「ノクターン第1番~5番」作曲。 |
1832年(22歳) | プレイエルホールで演奏会を開き大成功を収める。 「エチュード第3番『別れの曲』」作曲。 |
1834年(24歳) | このころ「幻想即興曲」作曲。 |
1835年(25歳) | 5年ぶりに両親と再会。マリア・ヴォジンスキと恋。 |
1836年(26歳) | マリアに求婚。やがて自然消滅的に破局。リストの紹介で女流作家ジョルジュ・サンドと知り合う。 |
1837年(27歳) | 「ピアノソナタ第2番『葬送』」作曲。 |
1838年(28歳) | パリを離れ。マジョルカ島でサンドと生活を始める。 「ポロネーズ第3番『軍隊』」作曲。 |
1839年(29歳) | 喀血し一時健康状態悪化。パリに戻る。 |
1841年(31歳) | プレイエルホールで演奏会を開き成功を収め、翌年のリサイタルでパリでの不動の地位を築く。 |
1842年(32歳) | 「ポロネーズ第6番『英雄』」作曲。 |
1843年(33歳) | このころから健康状態悪化。 |
1844年(34歳) | 父ニコラス死去。「ピアノソナタ第3番」作曲。 |
1846年(36歳) | 「ポロネーズ第7番『幻想』」、「チェロソナタ」作曲。 |
1847年(37歳) | 「ワルツ第6番『小犬のワルツ』」作曲。ジョルジュ・サンドと決別。 |
1848年(38歳) | プレイエルホールで最後の演奏会。旅先のロンドンで生涯最後の演奏会を開く。 |
1849年(39歳) | 持病の結核が悪化。姉ルドヴィカと再会後、10月17日、死去 |