ここでは、ショパン弾きで有名なピアニストを新旧6人に絞って紹介していきます。
ルービンシュタイン | ![]() |
1887年1月28日 - 1982年12月20日. ショパンと同じくポーランド出身のピアニスト。様々な作曲家の作品の演奏で国際的な名声を博し、特にショパンの演奏では同時代の最も優れたピアニストであるとみなされている.。また、20世紀の代表的なピアニストの1人である。彼の演奏家としてのキャリアは80年にも及んだ。 |
ホロヴィッツ | ![]() |
ホロヴィッツ自身は非常に神経質な人だったそうで、ピアニストの奇人変人伝説には必ずと言ってよいほど登場します。 演奏スタイルも彼独自の信念に基づいたもので、一時の気の緩みも許されないほどの緊迫感に満ちています。 演奏中、常識ではおよそ考えられないようなアゴーギクやデュナーミクを酷使するため、次の瞬間起こるであろう 出来事の予測が難しく、常に強い緊張を強いられます。演奏中随所にただならぬ気配を感じさせる音の運びを し、どーっと雷を落とす彼の演奏スタイルは彼独自のもので、この人の演奏がツボにはまると、 他の誰の演奏からも体験することのできない、恐怖に満ちたスリリングな感動を味わうことが できます。 |
フジコヘミング | ![]() |
日本人ピアニストの母、大月投網子とロシア系スウェーデン人画家/建築家ジョスタ・ジョルジ・ヘミングを両親としてベルリンに生まれる。母の手ひとつで東京に育ち、レオニード・クロイツアーに師事、青山学院、芸大を経てNHK毎日コンクール賞、他受賞。 たまたま来日中のサムソン・フランソワは日比谷でフジ子のショパン・リストの演奏を聴き絶賛。その後、ベルリン国立音楽学校を優秀な成績で卒業。以後、長年にわたりヨーロッパ在住、演奏家としてのキャリアを積む。ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドウーラ・スコダに師事。今世紀最大の一人といわれる作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナにウィーンで才能を認められ、彼のソリストとして契約したことは彼女が最も誇りとしているところのひとつである。 |
アルゲリッチ | |
1941年アルゼンチンブエノスアイレス生まれ。幼い頃から生地でデ・クッスロフ、ヴィチェンテ・スカラムッツァに師事しています(ゲルバーの師でもある名教師スカラムッツァについては、アルゲリッチ本人も「メソード重視で退屈だったが、基礎形成には重要だった」述懐しています)。 1949年、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンでデビュー。モーツァルトの協奏曲第20番、ベートーヴェンの協奏曲第1番を取り上げています。 1955年、外交官だった父親がウィーンのアルゼンチン大使館に赴任となり、家族でウィーンに移ります。この際フリードリヒ・グルダに師事しますが、アルゲリッチはそのレッスンに大きな感銘と影響を受けたと述懐しています。 |
ユンディ・リ | ![]() |
20世紀最後の記念すべき2000年ミレニアムに開催された第14回ショパンコンクールで優勝した、 新しい世代を代表するスターピアニストです。
コンクール出場時17歳、コンクール中18歳となった彼の優勝は、史上最年少記録となりました。 これまで、ポリーニ、ツィマーマンが18歳優勝で最年少記録でしたが、彼はその記録を見事塗りかえたのです。 ユンディ・リの演奏の特徴は、きわめて明快でケレン味のないスマートな表現、若々しくフレッシュな 感覚、そして、ピアノから非常に美しい響きを出すための、音色に対する研ぎ澄まされた感覚などだと思います。 その優れた演奏技巧を駆使して、爽快に弾き飛ばすリストのラ・カンパネラやショパンの木枯らしのエチュードを 聴いて、ピアノというのは芸術というよりスポーツだと感じさせてしまうのは、彼の若さのなせる業と言えると 思います。 |
ブレハッチ | ![]() |
浜松国際コンクールでは、1位該当なしの2位に入賞する。コンクール参加時点まで、ブレハッチの自宅のピアノはアップライトであったため、これを知ったワルシャワ市が日本出発前の2ヶ月間、彼にグランドピアノを貸与したという逸話が残っている。2位入賞の獲得賞金で、彼は初めて自分のグランドピアノを買うことができた。 2005年10月、ラファウ・ブレハッチは第15回ショパン国際ピアノコンクールで優勝した。彼は同時に、マズルカ賞(ポーランド放送)・ポロネーズ賞(ポーランド・ショパン協会)・コンチェルト賞(ワルシャワ管弦楽団)・ソナタ賞(クリスティアン・ツィマーマン)も併せて総なめにした。同コンクールで「2位なし」の審査結果が出たのは史上初の出来事であった。ポーランド人の優勝者は、1975年の第9回コンクールを制したツィマーマン以来6回目(30年ぶり)となる。 |